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母の乳がん闘病と私

先日の24日、母が他界しました。7月24日は20年前、乳がんで初めて診察を受けた日でもあり、母の誕生日の前日。満70歳でした。

 

闘病生活は20年間。昨年あたりからは「もう治療法は無く今後は緩和ケアをすすめましょう」と主治医から言われてきてため「覚悟」はしてましたが、やはり実際亡くなると「目の前に母がいること」と「もう会えないこと」は当たり前ですが、大きな違いがあると感じています。

 

私は6月から自分の仕事をセーブさせていただき実家に通って、母との時間を過ごしてきました。(皆様方にご協力いただきましてありがとうございます)

 

今日は最初の月命日。まだまだ母が隣で笑っているようでもあり、父は涙と悲しみにくれている中ですが、色々感じたことがあるのと、
「きっと今も大切な方ががんで私と同じような方がいらっしゃるだろうな」と思い、覚書として母のことを書かせていただいたいと思います。

 


20年間の闘病

20年前に「乳がんステージ3」と診断されその後、抗がん剤点滴、手術。転移ありでその後放射線治療で通院治療をしながら、がんと共に暮らしてきましたが、
昨年に入った頃から足に転移したがんが進行して、足がむくみ、歩行が困難になってきました。毎年のダンスパーティーでは踊れなくなってしまいました。そしていよいよ主治医からは、緩和ケア病棟をすすめられました。

本来でしたらこの段階になると「緩和ケア」と共に思い出づくりや、エンディングノートなどを記したり、自分らしい最後に向けて整えていくのかもしれません。事故の方や突然の病死などの方に比べたら、準備ができるのが恵まれているのかもしれません。
日々100人単位の患者と接して経過を診ている主治医からすると、今どの状況で今後どうなっていくかイメージできていてそう仰ってくださるのでしょうが、私たちからすると(初めてのことなので)イメージすらできません。「先生は諦めモードでひどいね…」と思ってしまったり母も私たちも「先生はああ言っているけれど、きっとまだ、何か手立てはあるはず…」と、「出来ることをしたい」と、セカンドオピニオンをしたり「新薬にチャレンジしたい」と先生に申告したりと、生きることに向けて精一杯でした。特に母は周りに元気な友達が多く、お誘いも多かったので「どうにかして生きたい」という気持ちが強かったのだと思います。

今年に入ってからは、かなり痛みが強く、貧血気味で免疫力も下がったため熱が続く日々。診察したときに数値が低くて輸血、入院というときもありました。心の支えだった社交ダンスのお誘いにも顔を出せない日々が続きました。
「なかなか思うように身体が動かないのがまどろっこしい」
「でも病院よりも、なるべく家にいたい」という本人の希望で介護サポートも受けながら家にいる時間が増えていきました。私も母のもとへ通う日々が多くなりました。

 

今年の7月に入った時、脳卒中で緊急入院。(がんが脳に転移したと思われます)旅行が好きな母。「今年の夏も家族で旅行いこうね」と、自ら予約していた矢先の出来ごとでした。

「いつかはこうなる。」「20年も頑張ってできる限りのことをしてきたから…」と私も母も心の中では思いつつも、お互いそれを言えない。「終活」や、「エンディングノート」という言葉も頭をよぎりながらも「その時になったらどうしたい?」なんて口にもできず、つい「退院したら、旅行いこうね!」と叶わない未来について話してしまいました。

 

入院している母の病室に連日宿泊した日々は、悲しいながらも
忘れられない日々でした。

入院した当初は、一時的なつもりで、夏休みの旅行の計画もキャンセルするかどうか迷ったくらいで、家もそのままだったので本人も帰る気でいたと思います。それでも日に日に弱って、食事ができなくなり、水を飲むことも難しくなってきて、主治医から「いよいよです」と言われた時、ようやく「がんの終末期は急にガクッと変化する」と何度も聞いていた時がこれなのか…と呆然としました。つい2、3日前には、自宅でお客様を笑顔でもてなしていた母との差が大きく、父も私もショックでした。

それでも最期まで人前で弱音を吐かず、笑顔を見せてくれた母。
家族や親戚、お世話になった先生方に対して「私は大丈夫だから!本当にありがとう」と元気に振る舞いもてなす気丈さを見せました。そのため、かえって周りの方が励まされるくらいでしたが、
夜、眠れないくらい痛くて、息苦しく悶絶する姿を私は見ていたので、流石に痛々しくて「もう我慢しなくていいよ」「ずっとそばにいるからね」と声をかけてしまいました。

 

思えば、母が私に対して気弱な姿を見せたのは今年に入ってから。
それまでは入院や診察の時も「大丈夫だから。」と私を突っぱねていたのが「先生の話を一緒に聞いてもらえる?」と診察の付き添いを頼むようになり、時々電話をかけてきては「痛いんだよね…」「先生からもう治療がないと言われてどうしよう…」「こんなに腫れてきたよ」と普段見せない弱音を吐いてくれるようになりました。

「もっと早く言ってくれれば…もっと支えになれたのに。」無力で、心の支えくらいになれればと思う悔しさばかり。親は子どもに「心配かけたくない」と思うものなのかもしれません。

 

最期の時は父が「また出逢ったらプロポーズするよ」という言葉、私は今まではっきり言えなかった感謝の言葉をかけ続け、家族で看取ることが出来ました。「家と花と歌とダンスが大好きな母の想いを大切にしたい‥」と
自宅に帰り納棺式を行い、葬儀は花屋を営むの弟たちと親戚総出で華やかな花祭壇で見送りました。
「花とダンス音楽づくし」のお別れ会になりました。病気でなかなか会えなかった方々にお声がけをし、母が最近できなかったことを最後にして、届けられたのは良かったかな?と思います。

 


100歳まで生きる方が多い中、70歳という歳は、「十分生きた」と思えるには今の時代はまだまだ物足りない歳。

 

自営業の父を支えるために家庭に入り、子育て、家族第一に生きてきた母にとって、「気軽に楽しもう」という時期がこれからでした。
20年前、50歳でがんと診断された際のショックも大きいものでした。

 母は、自分で調べて計画、実行する力があり、人付き合いも得意で社交的でもあったので
「事業をするなら父よりも母が適任なのに、なぜ家にいるんだろう?」と不思議に思ってきました。事あるごとに、「働けば?」と母に言うのですが、父に家にいて欲しいと言われたからと答える母にイラっとしていました。思えば、父や子どもたちに気を使っていたのでしょう。

 

だから、20年前、子育てが落ち着いてきていよいよ第二の人生かな?と思っていた矢先
がんと診断された時は特に残念でした。「5年生存率」なんて言葉を知り、残された時間を「好きに向かって母らしく生きて欲しい」と心から願いました。

その時20代の私は、母の病気は「自分ごとだ」と感じました。
それまでは「人生はこれからずっと続くもの」「時間もまだまだあるし、なるようになる」と、なりたい自分も無く、毎日のんびり過ごしていましたが、
「人生は終わりがあるもの」「与えられた、限りある時間を大切にしよう」「今、目の前のご縁を大切にしよう」と自分の世界が一気に変化しました。それが今の私の活動の原動力になっているので、母からのプレゼントだったのだと思います。

 

20年間、日々死と向き合い病気と不安を抱えながらも私たちの前では笑顔な母でした。
けれど、同級生や周りの社交ダンス仲間の方々が日々元気に人生を満喫している姿を見ると「なんで私ががん?」そんな悔しさが強かったと思います。家に残された闘病の記録は10冊以上のノートに日々の様子や先生のコメント、薬や手術の様子など記録されていました。「もっと生きたい」「やりたいこといっぱいある」と言う心の叫びが感じられて、私が知らなかった母の気持ちに胸が痛みます。

一方、大好きで、得意だった社交ダンスの写真や資料が多く手元に残っていました。私も誘われてレッスンに通い、踊っていた時期がありましたが、ダンスをしている母は身体の中から喜びが出て、イキイキと輝き、驚いた記憶があります。

いつも厳しく「教育ママ」で、友達親子とは程遠い母が、社交ダンスの仲間の中ではリーダー格で持ち前の社交性を発揮して食事会を企画したり、友達を紹介したり。
「皆んなから慕われていたんですよ」と後々きいて
「ここでは自分らしくいられたんだ」とホッとして、嬉しく感じました。

近いうちに母を偲ぶ会を開催してくれると、メンバーの方から連絡があり、今もやりとりをしています。

 

 そのため、やりきれない思いはありつつも、
母はいつでも精一杯生きてきたし「自分らしい人生」を送ってきたんだね、と思うようになりました。

事実を受けいられず絶望で「生きていても仕方ない」と感じながら
そこから前を向き、少しずつ前へ歩んできたチカラを持てたのは
「好きなこと」「寄り添う仲間」のおかげだったのかもしれません。

 

 


悲しみから這い上がるプロセス

 

「母の分も人生を満喫、自分らしく生きていこう。」
それが今の私ができることだと考えています。

配偶者を亡くす衝撃、ストレスはとても大きい。
そんな話をよく聞きます。今一番心配なのが父です。
家にいられず、引退した仕事場へ出社する日々。食欲も減り年齢的にも体力が落ちて心配です。
ただ私の前では、涙を流しながら思い出を語ってくれることが救いと感じています。強がって涙を我慢すると乗り終えられません。今私にできることは、できるだけ話を聴く、近くに居ることだと感じています。

 

悲しみのショックの中では、
事実を認められず現実から逃げたり、妄想の中に生きたり
怒りや罪悪感を感じたり、うつ状態になり周囲に無関心、投げやりになったり…と様々です。

 

 悲しみから這い上がる時のプロセスとして
まず、現実を認める、向き合う、
心のモヤモヤの怒りや悲しみの発散、罪悪感を癒す、
全てを受容して、無気力や混乱から抜け出す、希望を持つなど
段階があります。

いきなり気持ちを切り替えることは難しいです。かといって同じ状態に浸ってしまうと抜け出せなくなります。

悲しい、寂しい、悔しい、怖いなどの、「ありのままの気持ち」を、受け止めてくれる人の存在、安心して気持ちを発散できる環境がとても大事です。

幸い私の周りには、支えになってくれる方々や、目標、今までやってきた仕事などがあるのでなんとか大丈夫そうですが、それでも時々どん底に落ちるときは娘が相手になってくれるのがありがたいです。

 

何でお役に立てるかはわかりませんが、20年間母とがんと生活してきた経験を何かに活かしていけたら。
がんで悩んでいる方やご家族の支えにも今後少しでもなれたらいいなと考えています。

 そして、同じ思いを持って居る方は私たちの他に多くいらっしゃると思います。持って行き場のない想い、目標の喪失などいろいろ出てくるかと思いますがなんとか発散、計画と規則正しい生活を大切にしていって前を向いて、立ち上がって欲しいと思います。

 

これからもよろしくお願いいたします。

 

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